社会は「障害」を受け入れることができるか。

もし、障害者の家族になったとき、障害者の友人になったとき、わたしたちは「障害」を適切に捉えて前向きに理解することができるだろうか。

 

現代の日本社会では、障害という問題は非常に一般的なものであり、誰もが当事者として向き合うことになり得る、ということをもっと知っておいた方が良いと思っている。

 

厚生労働省によると、身体障害者393万7千人、知的障害者74万1千人、精神障害者392万4千人の900万人近い人々が「障害者」として暮らしている。それぞれ家族がおり、「障害者の家族」はその数倍の人数になる。どこまでの親族関係を家族とするかによるが、同居家族数だけで考えても人口の少なくとも10%以上が障害者またはその家族ということだ。

 

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つまり、障害はイレギュラーな事象ではなく、ごく身近のありふれた事象だ。後天的な障害の方が多いので、あなたも私もある日突然、障害者の家族になり得る。

 

そうなったとき、わたしたちは障害を受け入れることができるだろうか。障害者と生きることのインパクトをうまく生活に吸収していけるだろうか。

 

少なくとも私たちは「障害者の家族としてどう生きるか」というテーマについての教養を持っていない。だから、すぐに受け入れることは難しいし、苦難として捉え続ける人も多いだろう。

 

これは、日本の教育過程においてこの問題が重視されていないためだ。私たちが学校で受ける障害に関する教育は「平等や相互理解の重要性」を説くものであり、障害という事象に身近で接した場合に、その事象とどのように付き合っていくべきかを説くものではないのだ。

 

また、障害者を教育段階からセパレイトする社会である為、障害を持つ友人を身近に感じ、接するという経験が圧倒的に少なく、障害の受容に慣れていない。

 

障害者の家族は障害者と生活していく上で、多大な不安や困難に直面することになるだろう。多くの人は身近に障害という事象が突然発生することで、落胆・混乱・怒り・戸惑いといったものが入り混じった感情を発症し、それを収めていくのに長い月日を要することになる。

 

だが、それを乗り越えられることをちゃんと認識しておいた方がいい。障害受容のプロセスについてはいくつかの有名な研究がある。例えば、ドローターやクラウスが示す「ショック→否定→悲しみと怒り→適応→再起」[中田 2002:31;石川 1995:26]は代表的な段階説だ。このフレームは障害を持つ子どもの家族について語られるときには、必ずと言っていいほど、引用される〔中田 2002:31-32〕。 この段階説にあるように基本的に、障害の捉え方は変えることができ、いつかは前向きな捉え方で受容できるものとされている。

 

しかしながら、これらは障害受容のプロセスを整理するフレームワークであり、方法論ではない。実際に障害に対峙する人々のヒントにはなりにくい。ドローターらが示す段階説の「適応」部分を各家族がどのようなプロセスで実現したかは見えないからだ。きっとそのプロセスに、障害者・障害者家族を勇気づけるヒントがあると思う。

 

知的障害の息子をもつ大江健三郎は障害者の親の立場を次のように語っている。

 

いろいろな経験をして、こちらは叩きのめされているわけです、正直いえば。叩きのめされてきたけれども、しかし、僕たちはそこから立ち直っている。さらに新しい困難がやって来ることもある程度予想しながら、それが自分の目の前に来るまではおびえないでいる力をもっていると思います。暗い面もはっきり認識しながら、しかし、障害をもった子供と自分とは確かにある役割を社会で果たしている、果たし得るという気持をもっているわけです。いやお前たちには役割がないというふうないい方をする人には、直接抵抗してやろうという気持ももっています。たとえば町で障害をもった子供のお母さんに会うと、その考え方に立って、お互いに激励し合いたい気持です。[大江 1990:44]

 

大江さんが「障害」に真正面から向き合い、苦しみ、理解し、前進する姿勢に至ったことがよく分かる文章だ。どのような過程があり、このような姿勢に至ったのかは想像し得ないが、このプロセスは非常に興味深く、多くの障害者家族を勇気づける教養になるはずだ。

 

何らかの問題と対自する場合、研究や論文などアカデミックなものに頼ってしまいがちだが、障害者の家族として生きるヒントは、先輩の障害者家族の中にあると思っている。大江さんのように苦難を乗り越えた人たちの考え方や視点は、とつぜん障害と対峙する人々のそうした人たち同士が経験談をシェアしあうような仕組みがこの社会にはもっと必要だ。そういう場を作るべきだと思うし、できれば自分も貢献していきたい。

 

株式会社LITALICOは発達障害の情報交換サイトを始めている。障害に直面した人がその状況を乗り越えた経験を共有する場は少ない。だからこそ、LITALICOのようなインターネットを活用した情報インフラが整備されていけば、もっと社会が障害を受け入れやすい状態が作れるはずだ。

 

h-navi.jp

 

株式会社エス・エム・エスが運営する認知症専用ポータルサイト認知症ねっと』もこのテーマに沿った情報インフラと言える。2026年に認知症患者は700万人規模になると言われている。ここに蓄積されている情報にきっと多くの人が助けられるだろう。

info.ninchisho.net

 

世界中の人々の楽しみが共有されるインターネットの世界は素晴らしいけれど、「世界中の人々の苦難の乗り越え方を共有する」という意味でまだまだ可能性を残していると思っている。今回は「障害」を主題に考えてみたけれど、それ以外にも人生には突発的な苦難が溢れている。そのとき先人に道を尋ねられるインフラを整備できれば、より素晴らしいインターネットの世界が広がるはずだ。

 

参照文献 ・推薦文献

石川 准

1995 「障害児の親と新しい「親性」の誕生」 『ファミリズムの再発見』 井上眞理子、大村英昭(編)、pp.25-59、世界思想社

 

猪瀬 浩平

2005 「空白を埋める―普通学級就学運動における「障害」をめぐる生き方の生成―」 『文化人類学』 70/3、pp.309-326、日本文化人類学会。

 

 

上田 敏

1983 『リハビリテーションを考える:障害者の全人間的復権』 青木書店。

 

上田 敏・大江 健三郎

1990 「人間共通の課題としての『障害の受容』」 『自立と共生を語る-障害者・高齢者と家族・社会』 pp.9-67、三輪書店。

 

上田 敏・正村 公宏

1990 「福祉社会への道」 『自立と共生を語る-障害者・高齢者と家族・社会』 pp.85-154、三輪書店。

 

 

鎌田 正浩

1998 『知的障害がある子を真に受容するには-大江健三郎の文学作品等の分析を通して考える-』 鳥影社。

 

クラインマン、アーサー

1996 『病いの語り―慢性の病いをめぐる臨床人類学』 江口重幸他訳、誠信書房

 

土屋 葉

2002 『障害者家族を生きる』 勁草書房

 

中田 洋二郎

2002 『子どもの障害をどう受容するか―家族支援と援助者の役割―』 大月書店。

 

正村 公宏

1993 「ダウン症の子をもって」 『障害とともに-新しい自己(Ⅱ)-』 柳田邦男(編)、pp.37-143、文藝春秋

 

茂木 俊彦

2007 『障害児教育を考える』 岩波書店

サイボウズ『働き方改革、楽しくないのはなぜだろう。』を読破して

サイボウズは20周年記念コンテンツとして『働き方改革、楽しくないのはなぜだろう。』の特設サイトをオープンしました。

内山勇士作のメッセージアニメ『アリキリ』をメインコンテンツに、「働き方」をテーマとして様々なコンテンツが掲載されています。

 

cybozu.co.jp

 

新聞広告・街頭広告を使った大規模なプロモーションが行われており、ネット上でも話題となっていますね。

 

 

 

 

 

 

メッセージ性の強い広告とアニメもおもしろいのですが、何より「働き方」に関する議論がたくさんまとめられていることに価値があります。

様々な人が様々な立場から「働き方」について語る。正解もなければ、意見もばらばらですが、「働き方」についてよく考えた人の意見であることはひしひしと伝わってきます。自分の「働き方」について突き詰めて考えるための視点やヒントを得るためのメディアとしてとても価値が高いと感じました。

 

※「働き方」といえば鉄板のこちらも改めておもしろい

ほぼ日刊イトイ新聞 - はたらきたい。

 

一方でこのコンテンツを読破した(ボリュームありすぎてこの表現が一番しっくりくる)後、サイボウズに超えてほしい壁を感じました。

 

青野社長が言っている「みんなで集まって働くことが楽しいかどうか」をもっと突き詰めていってほしいな、ということです。

今のコンテンツは「働き方」に対する様々な視点があることがわかってとてもおもしろいのだけれど、「みんなが集まって働くことが楽しい会社」と「みんなが集まって働くことが楽しくない会社」のどこがどう違うの?という点は霧に包まれたままでモヤっとしている気がするんです。

 

もう一歩踏み込んでいうと、両者の文化(価値観・ルール・組織体系・情報伝達の仕組みなど)には具体的にどういう違いがあるの?ということを深堀りしてほしい。深掘りしないと、「働き方」に関する様々な意見は、それぞれのおもしろい意見が飛び交っただけになる。せっかくなら「働き方」の基盤となる組織の文化をどうすべきか?という具体的な議論に発展させてほしいのです。

 

できれば、エスノグラフィを用いてほしいなあ、と。文化人類学者が各民族の文化や仕組みを読み解く際に、参与観察によって情報収集をして後に集めた情報をもとに文化をモデル化したのと同じように。企業に仮入社して参与観察した結果をまとめて記事にしたら鳥の視点(俯瞰した視点)と虫の視点(接近した視点)が持てて、とてもおもしろいことがわかると思うんです。

 

実際には、この会社はみんなが楽しく働いていて、あの会社はそうじゃない、というのは定義できないので、まずは、日本企業と外資系企業の違いを参与観察から紐解くってテーマがおもしろいんじゃないかな。日本とドイツであれだけ生産性に違いがある背景は誰もが気になっているところだと思うんです。行動様式が明確に違っていて、行動様式を決める文化が明確に違うはず。そこは外からじゃあ見えない。

 

外から見える制度や社長インタビューなんかで紐解くんではなくて、実際その会社で一定期間働きながら観察した情報をもとにどこがどう違うか比較してみたい。

 

・突発トラブルへの対応判断のプロセス

・上司から部下への指示の出し方

・サービスの期待値のクライアントへの伝え方

・価格交渉における値下げのプロセス

 

などなど、比較すると全く違う価値基準で判断が下されていて、それが生産性や職員の働き方につながっていると思うのです。それを「働いてみたらこうでした」と言えるコンテンツがあれば「働き方」の議論が一気にブレイクスルーするはず!

まあ「研究者がやれよ」って話でもありますが、サイボウズさんがやった方が一般にわかりやすく発信できると思うんだよなあ。

 

好き勝手書きましたが、これからもサイボウズさんのおもしろい「働き方」コンテンツに期待しています。

 

 

スポーツ観戦は『スラムダンク』を読むように

スポーツ観戦初心者に訴えたいことがあるのでここに記しておく。

 

スポーツ観戦を「おもしろくない」と言う人がいるけれど、それはほとんどが観戦の仕方を過った結果だと思っている。

 

みんな、サッカーなり野球なり、そのスポーツ自体に期待しているのが間違いなのだ。そのスポーツのルール・仕組み自体に魅力があると思っていることが間違いなのだ。

 

では、どんな観戦の仕方が正しいのかといえば、わたしは「スラムダンクを読むように観戦すること」が正しいと訴えたい。

 

スラムダンクってなに?」と思った方は、恐縮ではあるが、ひとまずご退場いただきたい。とりあえず漫画『スラムダンク』の県大会・綾南戦くらいまで読んだ上で戻ってきていただけるのなら幸いだ。

 

 

話を本筋に戻す。『スラムダンク』はバスケットボールの試合を中心にストーリーが展開するが、読者はそれをバスケットボールという一スポーツとして楽しんでいるわけではない。様々なキャラクター同士のやり取りが、バスケットボールという媒体を通じて展開していく様を楽しんでいるのである。

 

"名前も知らない高校三年生の全国大会出場を決めるスリーポイント"と、"木暮公延の全国大会出場を決めるスリーポイント"のあいだには大きな価値の差があるのだ。

 

ここまで来ればわかっていただける筈だ。スポーツ観戦の楽しさを分けるのは、選手(およびチームスタッフ)に対する理解度である。

 

どんな経歴なのか、どんな性格なのか、どんな苦労をしてきたのか、どんな成功をしてきたのか..

 

これらをできるだけ理解した上で試合を観れば、単なる一試合もドラマチックに見える。

 

かつての盟友同士が争う試合、親子が監督・選手で争う試合、期待されて不発だった助っ人選手の初得点、苦労した若手のデビュー戦、一度も勝ったことがないチームからの勝利..どんな試合にもどこかしらドラマを感じる瞬間がある。これを見いだし楽しむことが醍醐味なのだ。

 

スポーツ自体はドラマを媒介する媒体に過ぎない。最低限のルールを押さえたら、とにかく選手に注目してほしい。

 

名前が変だから、背が大きいから、ヤンキーみたいだから..理由は何でもいいからまず一人の選手に注目して欲しい。そしてその選手を中心にスポーツを観戦してみて欲しい。その選手の味方、敵、監督、ファンへと理解は広がっていく。そして自然にドラマは生まれていくはずだから。

 

そう、桜木花道を中心としたドラマがそうだったように。

 

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週3回の夜90分が人生を分ける

週3回の夜90分が人生を分ける。

今日はこの提案について論考してみたい。

 

これは、英国の小説家、劇作家であったイーノック・アーノルド・ベネット (Enoch Arnold Bennett、1867年5月27日 – 1931年5月27日) が著書『自分の時間』において提案したものだ。

 

自分の時間 (単行本)

自分の時間 (単行本)

 

 

以下、ベネットの主張の一説である。

私が言いたいのは、「夕方6時に、あなたははまだ疲れているわけではないのだ」という事実を直視し、受け入れるということだ(事実、あなたは疲れてはいないのだから)。

だから夜の時間が、食事のために真ん中で中断されないよう配慮することだ。そうすれば、少なくとも3時間というゆとりある時間をもてることになる。

私は何も、毎晩この3時間を、「知的エネルギーを使い果たすようなことに使え」などと言うつもりはない。

私が申し上げたいのは、まず手始めに、ひと晩おきに1時間半、何か精神の向上になるような意義のあることを、継続してやってみてはどうだろうかということである。

それでもまだ3晩残るのであるから、友人と会うこともできるし、ブリッジやテニスをすることもできる。家庭内のことをやったり、ちらっと本のページを繰ったり、タバコをふかしたりもできる。庭いじりもできるし、ただ何となく時を過ごしたり、クイズの懸賞に応募することもできよう。

なおその上に、「週末」という素晴らしく豊かな時間があるのだ。もし辛抱強くひと晩を意義あることに使いつづければ、本当に充実した生活をするために、やがてさらに4晩、5晩と努力を重ねていきたいと思うようになるだろう。

 

90分の時間を週に3日確保し、ひとつのことに集中する。その積み重ねが人生を分ける。この提案自体は的を射ているかもしれない。たしかに時間の不足を理由に関心があることに取り組まないことは誰にでもある話だ。いくら「不足」していても週に3日は90分を確保することは一般的には可能であり、その積み重ねは人生の可能性や充実に大きく作用するように思える。

10年前から週に3日の90分を語学学習に充てたらどうだろう。2340時間英語を学んだ私と、一切英語に触れなかった私とでは全く異なる人生になるに違いない。

 

が、そんなことは誰もがわかっている。

問題は、それをいかにすれば実現できるか、ということである。 

いかにすれば週に3日、90分という時間を自分の精神的な(あるいは取り組んでみたい)活動のために確保できるのか、だ。

 

結論から言うと、脳の切り離しと訓練が一つの解になる。ベネットも別の文脈で述べているが、脳を自分とは切り離して認識し、その動きをコントロールするというスキルが、大事なことに集中し持続的にそれを行っていく為には肝となる。

 

わたしはこれをみうらじゅん氏の著書から学んで実践している。彼の主張では仏教的な観点からの「脳の切り離し」がよく提案される。

脳にはクセがあり、そのクセに沿って動いているというイメージを持つと、何となく脳は同居人のように思えてくる。同居人のイメージを持つと今度はコントロール可能な存在として認識できるのだ。

試してみるとおもしろく、意外と脳のクセは矯正できる。例えば、仕事が立て込んでいると様々な案件が心配になって注意が散漫になる。しかし、毎日ひとつのことに集中する訓練を始めてからは、どんなに忙しくても目の前のやるべきことを淡々とこなせるようになった。

 

訓練の方法はシンプルだ。朝夕の食事で、とにかく「味わう」ことに集中することだ。食事の時はテレビは決してつけない。どんなに粗末な食事、例えばカップラーメンであっても、食べることに集中する。麺の固さ、スープの香り、塩加減、かやくの味。様々な要素に注目して食べることだけを楽しむ。

これができるようになるまでは大変だった。脳に築かれた強固なクセは、テレビをつけたがり、スマホをいじりたがる。何かをしながら食べたいのだ。

脳をコントロールする為には、とにかく食事に関することだけを考え、何か他のことに関心が行きそうになる脳を引っ張り戻す意識が必要だ。辛抱強く一週間も戦うと、かなりの時間を食事に集中させることができるようになる。

 

先ほども述べた通り、食事に集中できるようになると、目の前のことだけに集中する能力が身についてくる。これはとても不思議な感覚なので是非体験してみていただきたい。様々なタスクを背負っていても「この30分はこれに集中する」という意思を持つだけで、その他の心配事や関心は一切浮かんでこない。

 

はじめは30分でも徐々に集中できる時間は長くなる。これによってベネットの唱える世界観に近づくことができるのだ。

 

わたしは訓練を始めてまだ3ヶ月程度だが、今までとは一日の充足感が全く異なる。単純に自分の関心事に集中できる機会が増えたことで気持ちが充足している。どんなに仕事が上手くいかない時もだ。ベネットの提言する通り、仕事が終わっても疲れてなんていないということを実感し、驚いている。

そして、この状態を長年続けられた時の、大きな変化に今から期待している。

 

ポイントは、まず目の前の食事をできるだけ美味しく味わうことだ。

 

 

 

 

松本山雅FCとの黒歴史を振り返る(東京ヴェルディ視点)

松本山雅FCとの黒歴史

東京ヴェルディはもう9年間も辛く厳しいJ2リーグを戦っています。

それでもわたしは志を持って応援し続けています。

 

tomarunao.hatenablog.com

 

そんなJ2歴の中で最も辛い科目が「松本山雅FC」です。これまで9戦でたったの一勝。

もう見るのも辛いんだ。あのユニフォーム。

EPSONのプリンター…ごめん買えないよ。

 

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本日、リーグ戦10回目の松本山雅FC戦を迎えます。

今日こそ勝ちたい・・・

この樹海から抜け出したい!早く脱出したい!

 

樹海とのお別れに期待して、敢えてこの黒歴史を振り返っておきましょう。

これで最後にしたいよう。

 

一つ一つ見ていきます。

決して目をそらしてはいけません。

 

出会いの時

新たな緑ダービーで先輩としての意地を見せる。

2012/03/04 13:05 味の素スタジアム 12,432 人

東京V 2-0 松本

51' 小林祐希(東京V) 

58' ジョジマール(東京V)   

               

暗黒の扉

樹海・松本に足を踏み入れてしまう。

育てた猫に噛まれるとは..弦巻よ..

2012/07/08 18:03 松本平広域公園総合球技場 10,921人

松本 3-2 東京V

38' 弦巻健人(松本)

68' 森勇介(東京V)

82' 玉林睦実(松本)

85' 塩沢勝吾(松本)      

90' 中後雅喜(東京V)

               

まだイーブンでしょ?

まだ、樹海に踏み込んだことに気づいていなかった。

2013/05/15 19:03 松本平広域公園総合球技場 8,855 人

松本 0-0 東京V

 

あたりが真っ暗なのに気づく

気づけば手も足も出ない。自陣なのに敵ばかり。

2013/08/25 18:03 味の素スタジアム 6,544 人

東京V 1-3 松本

43' 犬飼智也(松本)

58' 船山貴之(松本)

61' 小池純輝(東京V)

73' 岩上祐三(松本)

               

樹海奥深くへ

ボッコボコとはこれか。またも自陣なのに敵ばかり。船山にはもう会いたくない。

2014/03/02 13:04 味の素スタジアム 12,658 人

東京V 1-3 松本

05' 船山貴之(松本)

08' 前田直輝(東京V)

45'+2 船山貴之(松本)

88' 船山貴之(松本)

 

ほんの一時の休息

ガンガン行って一瞬の光を見出すが、またも閉じ込められる。

2014/07/26 18:04 松本平広域公園総合球技場 11,600 人

松本 1-1 東京V

75' 杉本竜士(東京V)

81' 犬飼智也(松本)

 

もう何も見えない

J1から帰ってきてしまった…

ふざけんな、貸してやった前田直輝をJ1に置いてくるとは何事だ!

はるばる自陣までやってくる敵はお金を運ぶお客様。そう思わないとやっていけない。

2016/05/07 16:03 味の素スタジアム 8,664 人

東京V 0-4 松本

08' 宮阪政樹(松本)

28' 高崎寛之(松本)

51' 高崎寛之(松本)

59' 高崎寛之(松本)

 

早くJ1に昇格してくれ

寒いし、全然が歯が立たないし、何なんだよ(泣)高崎にはもう会いたくない。

2016/11/06 13:04 松本平広域公園総合球技場 15,343 人

松本 2-0 東京V

23' 石原崇兆(松本)    

29' 高崎寛之(松本)

 

敵の様子がおかしい

おや?いつもと違うぞ。何とか追いつけた。

2017/06/04 13:03 松本平広域公園総合球技場 12,527 人

松本 1-1 東京V

47' 安川有(松本)

83' 安在和樹(東京V)

 

記念すべき10戦目

果たしてどうなるか。

遠路はるばるやってくる松本山雅の皆様、良い試合にしましょう!

2017/09/10 18:30 味の素スタジアム 10,000人以上を希望(敵ばかりでも構わぬ)

Coming Soon !

Come on, Verdy !

消費ではない新しいハレが必要になる ー ハレとケとは

生活していく中で何ら変わらない日々に辟易してしまうことがあります。

平穏な生活を送っていても、鬱屈とした気持ちが溜まっていく。

これは一体どういう感情なんだろうということをよく考えていました。

 

この疑問に対して、納得のいく捉え方を示してくれたのが「ハレ」と「ケ」という概念です。ハレ=非日常、ケ=日常であり、人間の生活はこの繰り返しがあってバランスが取れるという考え方です。

 

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もう少し詳しく見ていきましょう。

この思想は民俗学者柳田國男に端を発し、人の生活には伝統的に「ハレ」と「ケ」の場が存在すると考えられてきました。「ハレ」とは祭や年中行事など非日常の状態を示す概念であり、「ケ」とは日常の状態を示す概念。簡易的にハレ=非日常」「ケ=日常」と捉えられます。

文化人類学的には、ハレとケの間には「ケガレ」という概念があって、社会はケの状態が続くと社会を動かす原動力(エネルギー)が枯渇してケガレ(ケ枯れ)に陥り、ハレの行事がそのエネルギーを補い、ケの状態に戻すと考えられてきました。

 

学校生活で例えるとわかりやすいと思います。例えば遠足に向けては気持ちが高揚していく(ハレ)。遠足が終わるとしばらくはその余韻があるが、普段の学校生活に戻っていく(ケ)。それが続くと必ず停滞感がやって来る(ケガレ)。またそのタイミングで運動会があり気持ちは再び高揚していく(ハレ)。このサイクルがあることで学校生活に彩りが与えられていきます。

 

つまり、日常の生活が続いた時の「停滞=エネルギーが不足した状態」を脱するために必要なのがハレの場であり、それがない状態が続くと鬱屈とした気持ちになってしまう、ということです。

 

現代に暮らす私たちにとって「ハレの場」というのは意外に少なくなってしまいました。昔の人々にとって「ハレの場」というのは、お祭りなどの行事にかこつけて美味しいお酒や食べ物を味わえる場でもありましたが、現代では美味しいお酒や食事は日常的に楽しむことができます。また、様々なイベントが年中行われ、非日常体験はテーマパークや旅行などで手軽に体験できます。

ある程度のお金と時間があれば、かつての非日常的なものは殆ど手に入ってしまうと言っても過言ではありません。そうすると、かつての非日常はを非日常として感じなくなっていきます。たくさんのハレの中で、相対的にハレと感じることが減ってきているのです。

 

ハレを増殖によりハレのハイパーインフレが起きていると言えます。

みんなが特別な体験を求めて、少し変わった消費に飛びついていますが、心の底からワクワクするような消費体験はもう殆ど残っていないんじゃないかと思うほどです。

今はインターネット上での体験が少しだけその状態を助けていると言えます。SNSや出会いアプリを使ってネットを通じた出会いにワクワクしている人たちが多く存在します。また、ネット上で知名度を上げることも同様の高揚体験になっています。

  

しかし、インターネットを通じたハレ体験さえも、非日常としての価値を失っていくと思います。既にSNSが日常の一部になっている人が殆どですし、「SNS疲れ」といった離脱傾向も見られており、インターネットは「ハレの場」としては一過性のものになるのではないでしょうか。

 

わたしたちには新たなハレが必要になります。それはインターネットの世界に閉じたものや、消費するだけのものでは持続性がありません。

キーとなるのは「創造」の要素です。現代のハレは単なる消費ですが、かつてのハレは創造の要素を持っていました。お祭りにしても年中行事にしても民衆が協力して作り上げていく過程があったのです。誰かと何かを作り上げる。その特別感こそがハレの本質であり、日常にエネルギーを補充する要素だったのではないでしょうか。

 

現代には豊富なリソース(人・物・金)がありますが、ただただそれらを消費することで日常にハレの要素を取り込んでいるだけに見えます。本来は、それらのリソースを生かして誰かと何かを作り上げるハレを日常に取り込んでいくべきだと思います。

 

きっとその方が楽しくて、充実した気持ちで暮らしていける。

誰かと何かを作り出す。このことに拘って暮らしていきたいと思います。

時間の浪費と投資

「この時間には何の意義があるか」ということをしっかり考えるようにしています。

 

言い換えると、「この時間で何がどれくらい前進する(後退する)のか」ということをしっかり考えています。

 

その上で、"何も変わらない" "後退する"場合はその時間を極力縮めよう工夫します。

そして、"前進する"場合は十分な時間をかけます。

 

前者を浪費、後者を投資と呼んで「今は時間を浪費している」「今は時間を投資している」としっかり頭の中で言葉にして、認識するようにしています。

 

松浦弥太郎が著書『考え方のコツ』の中で、

消費・投資・浪費の時間を区別し、いま何をする時間かを意識することが重要であると述べています。

 

考え方のコツ (朝日文庫)

考え方のコツ (朝日文庫)

 

この言葉を参考にして時間を分類して認識するくせをつけました。3つに区別すると「これは消費かな?投資かな?」という迷いが出てくるので、とりあえず2つに分類して認識するやり方を用いています。

 

このくせが身に付くと、一日を振り返る時に、今日という日を鮮明に認識できるようになります。

 

今まで「こんなことがあった一日だったな」と感じていたのが、それにプラスして「これが前進して、これが後退した一日だったな」とか「後退に使う時間は少なく、前進に多くの時間を使えた一日だったな」と感じるようになりました。

前進が多いと満足感で気持ちが満たされることが多くなりましたし、後退が多いと改善策を考えて次の日の工夫に繋げられるようになりました。どちらもポジティブな状態です。

 

この経験をしてみて思うのは、時間の認知の仕方を変えるだけで人生の感じ方は変わる、ということです。

 

いま過ごしている時間としっかり向き合って、それが何の時間なのかしっかり考えて認識する。そうすることで無為に過ごしたと感じる時間は減り、はっきりとした意味を持つ時間が増えます。時間に対して主体的に意味を付与して「時間を自分のものにする」イメージです。

 

何となく一日・一週間が終わったと感じるのは、時間をしっかり認識できなかった状態だと思っています。

 

主体的に今に意味をつけながら日々を楽しんでいきたいです。