社会は「障害」を受け入れることができるか。

もし、障害者の家族になったとき、障害者の友人になったとき、わたしたちは「障害」を適切に捉えて前向きに理解することができるだろうか。

 

現代の日本社会では、障害という問題は非常に一般的なものであり、誰もが当事者として向き合うことになり得る、ということをもっと知っておいた方が良いと思っている。

 

厚生労働省によると、身体障害者393万7千人、知的障害者74万1千人、精神障害者392万4千人の900万人近い人々が「障害者」として暮らしている。それぞれ家族がおり、「障害者の家族」はその数倍の人数になる。どこまでの親族関係を家族とするかによるが、同居家族数だけで考えても人口の少なくとも10%以上が障害者またはその家族ということだ。

 

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つまり、障害はイレギュラーな事象ではなく、ごく身近のありふれた事象だ。後天的な障害の方が多いので、あなたも私もある日突然、障害者の家族になり得る。

 

そうなったとき、わたしたちは障害を受け入れることができるだろうか。障害者と生きることのインパクトをうまく生活に吸収していけるだろうか。

 

少なくとも私たちは「障害者の家族としてどう生きるか」というテーマについての教養を持っていない。だから、すぐに受け入れることは難しいし、苦難として捉え続ける人も多いだろう。

 

これは、日本の教育過程においてこの問題が重視されていないためだ。私たちが学校で受ける障害に関する教育は「平等や相互理解の重要性」を説くものであり、障害という事象に身近で接した場合に、その事象とどのように付き合っていくべきかを説くものではないのだ。

 

また、障害者を教育段階からセパレイトする社会である為、障害を持つ友人を身近に感じ、接するという経験が圧倒的に少なく、障害の受容に慣れていない。

 

障害者の家族は障害者と生活していく上で、多大な不安や困難に直面することになるだろう。多くの人は身近に障害という事象が突然発生することで、落胆・混乱・怒り・戸惑いといったものが入り混じった感情を発症し、それを収めていくのに長い月日を要することになる。

 

だが、それを乗り越えられることをちゃんと認識しておいた方がいい。障害受容のプロセスについてはいくつかの有名な研究がある。例えば、ドローターやクラウスが示す「ショック→否定→悲しみと怒り→適応→再起」[中田 2002:31;石川 1995:26]は代表的な段階説だ。このフレームは障害を持つ子どもの家族について語られるときには、必ずと言っていいほど、引用される〔中田 2002:31-32〕。 この段階説にあるように基本的に、障害の捉え方は変えることができ、いつかは前向きな捉え方で受容できるものとされている。

 

しかしながら、これらは障害受容のプロセスを整理するフレームワークであり、方法論ではない。実際に障害に対峙する人々のヒントにはなりにくい。ドローターらが示す段階説の「適応」部分を各家族がどのようなプロセスで実現したかは見えないからだ。きっとそのプロセスに、障害者・障害者家族を勇気づけるヒントがあると思う。

 

知的障害の息子をもつ大江健三郎は障害者の親の立場を次のように語っている。

 

いろいろな経験をして、こちらは叩きのめされているわけです、正直いえば。叩きのめされてきたけれども、しかし、僕たちはそこから立ち直っている。さらに新しい困難がやって来ることもある程度予想しながら、それが自分の目の前に来るまではおびえないでいる力をもっていると思います。暗い面もはっきり認識しながら、しかし、障害をもった子供と自分とは確かにある役割を社会で果たしている、果たし得るという気持をもっているわけです。いやお前たちには役割がないというふうないい方をする人には、直接抵抗してやろうという気持ももっています。たとえば町で障害をもった子供のお母さんに会うと、その考え方に立って、お互いに激励し合いたい気持です。[大江 1990:44]

 

大江さんが「障害」に真正面から向き合い、苦しみ、理解し、前進する姿勢に至ったことがよく分かる文章だ。どのような過程があり、このような姿勢に至ったのかは想像し得ないが、このプロセスは非常に興味深く、多くの障害者家族を勇気づける教養になるはずだ。

 

何らかの問題と対自する場合、研究や論文などアカデミックなものに頼ってしまいがちだが、障害者の家族として生きるヒントは、先輩の障害者家族の中にあると思っている。大江さんのように苦難を乗り越えた人たちの考え方や視点は、とつぜん障害と対峙する人々のそうした人たち同士が経験談をシェアしあうような仕組みがこの社会にはもっと必要だ。そういう場を作るべきだと思うし、できれば自分も貢献していきたい。

 

株式会社LITALICOは発達障害の情報交換サイトを始めている。障害に直面した人がその状況を乗り越えた経験を共有する場は少ない。だからこそ、LITALICOのようなインターネットを活用した情報インフラが整備されていけば、もっと社会が障害を受け入れやすい状態が作れるはずだ。

 

h-navi.jp

 

株式会社エス・エム・エスが運営する認知症専用ポータルサイト認知症ねっと』もこのテーマに沿った情報インフラと言える。2026年に認知症患者は700万人規模になると言われている。ここに蓄積されている情報にきっと多くの人が助けられるだろう。

info.ninchisho.net

 

世界中の人々の楽しみが共有されるインターネットの世界は素晴らしいけれど、「世界中の人々の苦難の乗り越え方を共有する」という意味でまだまだ可能性を残していると思っている。今回は「障害」を主題に考えてみたけれど、それ以外にも人生には突発的な苦難が溢れている。そのとき先人に道を尋ねられるインフラを整備できれば、より素晴らしいインターネットの世界が広がるはずだ。

 

参照文献 ・推薦文献

石川 准

1995 「障害児の親と新しい「親性」の誕生」 『ファミリズムの再発見』 井上眞理子、大村英昭(編)、pp.25-59、世界思想社

 

猪瀬 浩平

2005 「空白を埋める―普通学級就学運動における「障害」をめぐる生き方の生成―」 『文化人類学』 70/3、pp.309-326、日本文化人類学会。

 

 

上田 敏

1983 『リハビリテーションを考える:障害者の全人間的復権』 青木書店。

 

上田 敏・大江 健三郎

1990 「人間共通の課題としての『障害の受容』」 『自立と共生を語る-障害者・高齢者と家族・社会』 pp.9-67、三輪書店。

 

上田 敏・正村 公宏

1990 「福祉社会への道」 『自立と共生を語る-障害者・高齢者と家族・社会』 pp.85-154、三輪書店。

 

 

鎌田 正浩

1998 『知的障害がある子を真に受容するには-大江健三郎の文学作品等の分析を通して考える-』 鳥影社。

 

クラインマン、アーサー

1996 『病いの語り―慢性の病いをめぐる臨床人類学』 江口重幸他訳、誠信書房

 

土屋 葉

2002 『障害者家族を生きる』 勁草書房

 

中田 洋二郎

2002 『子どもの障害をどう受容するか―家族支援と援助者の役割―』 大月書店。

 

正村 公宏

1993 「ダウン症の子をもって」 『障害とともに-新しい自己(Ⅱ)-』 柳田邦男(編)、pp.37-143、文藝春秋

 

茂木 俊彦

2007 『障害児教育を考える』 岩波書店